幕末明治

【明治期の異文化夫婦】士族の娘・小泉セツが外国人作家と築いた愛と創作の13年

明治期、日本文化に深く魅了され、その魅力を西洋に伝えたひとりの文筆家がいた。

小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンである。

彼はギリシャ西部のレフカダ島に生まれ、幼少期をアイルランドで過ごし、フランスやイングランドで青春時代を送ったのち、アメリカに渡った。

ニューオーリンズで開催された万国博覧会をきっかけに日本文化への関心を深め、やがて来日するに至った。

小泉八雲という名は帰化名で、八雲の血縁の親族に日本人は1人もいない。
彼は幼少期から少年期をヨーロッパで過ごし、19歳から40歳までをアメリカで過ごした生粋の外国人である。

怪奇小説家として日本の土着信仰にまつわる数々の名著を残した八雲だが、その著作のすべての原文が英語であり、日本語での読み書きや会話は得意ではなかった。

画像:小泉八雲(左)と節子(右) public domain

そんな八雲を公私ともに支え続けた女性こそが、出雲松前藩家臣小泉家の娘であった小泉セツである。(※戸籍上の名は「セツ」だが、本人は「節子」の表記も用いた)

セツも英語を話すことはできなかったが、二人は八雲の片言の日本語に合わせて工夫された独自の話し方、のちに「ヘルンさん言葉」と呼ばれる言語表現を通じて、深い信頼関係を築いていった。

もしセツと八雲が出会っていなければ、『骨董』や『怪談』などの名作がこの世に生まれることはなかったかもしれない。

今回は、小泉八雲に妻として寄り添い支え続けた、小泉セツの生涯に触れていきたい。

実家の没落と若き日の離婚

画像:藩庁松江城 wiki c 663highland

小泉セツは、王政復古の大号令が発せられた1868年2月、島根県松江にて小泉家の次女として生まれた。

父・小泉湊(八代目弥右衛門)は出雲松江藩に仕えた武士であり、小泉家は出雲国造の千家家とも縁戚関係にある上士の家柄であった。
しかし、明治維新を境に家禄を失い、次第に貧しい暮らしを強いられるようになった。

セツは生後まもなく、子供がいなかった親戚の稲垣家の養女となっている。

幼い頃から物語を聞くのが好きだったセツは、周囲の大人たちから伝説や民話を聞いて育ち、やがて自らも人に物語を語ることを好むようになった。

小学校も優秀な成績で卒業したが、実家も養家も没落してしまったため進学は叶わず、11歳から実父が興した機織会社で織子として働くこととなる。

18歳のとき、セツは婿養子を迎えて結婚したが、最初の夫は貧しさに耐えきれず、1年も経たないうちに家を出て戻らなかった。

その後、夫と復縁することはなく、セツは22歳で正式に離婚し、跡継ぎを残せなかったために稲垣家を離れ、実家の小泉家へと復籍した。

離婚後は、家業の機織の収入だけでは生活がままならなくなり、家計を支えるために外に仕事を求めた。

そうして見つけたのが、来日して間もない英語教師ラフカディオ・ハーン、後の小泉八雲の家に住み込む女中の仕事であった。

当初は通信員として働く話もあったが、セツはそれを断り、この職を選んだのである。

セツと八雲の馴れ初め

画像:小泉八雲(Patrick Lafcadio Hearn)public domain

二人が初めて顔を合わせたのは、1891年のことである。

18歳の年の差があったセツと八雲は、出会ってすぐに惹かれ合ったという。

八雲は20代の頃、アメリカで黒人女性と結婚していた過去があり、すでに離婚を経験していた。
また、20歳前後の頃には養育してくれていた大叔母が破産し、食うや食わずの極貧生活を味わったこともあった。

人生経験における共通点が多かったことも、二人が惹かれ合った理由の一つかもしれないが、セツいわく、八雲は優しく、しとやかで、観音菩薩のような目をした慎ましい雰囲気の女性を好んだという。

没落したとはいえ士族の家に生まれ、和服に身を包み慎ましやかな雰囲気を醸し出すセツは、八雲にとって憧れの日本の女性像そのものだったのかもしれない。

セツが八雲の家に女中として住み始めてからおよそ半年後、八雲は同僚との旅行中に、旅先の稲佐の浜へセツを呼び寄せている。

その様子は、同僚の目から見ても「雇い主」と「住み込み女中」という関係には映らなかったという。

翌月に八雲は、友人に宛ててセツとの結婚を知らせる手紙を送っている。

画像:稲佐の浜の弁天島 wiki cc

こうして、またたく間に始まったセツと八雲の蜜月だが、八雲は生涯にわたって日本語を流暢に話すことができず、セツも英語を解さなかったため、二人の意思疎通は片言の日本語によってなされた。

セツは、前述した八雲独自の言語「ヘルンさん言葉」を正確に理解し、自らも用いることができたという。
ちなみに「ヘルンさん」とは、八雲の愛称である。

日本語の読み書きすらままならなかった八雲は、セツに対して、日本に古くから伝わる奇妙な妖や神々の物語を「読み手」としてではなく、「語り部」として語ってほしいと何度も頼んだ。

八雲は、セツの語る物語の世界に深く入り込み、彼女の語りを出発点として想像を膨らませ、日本の妖怪や民話にまつわる数々の作品を生み出していったのである。

2人の結婚生活と「八雲」の名の由来

画像:島根県松江市塩見縄手の小泉八雲旧居(ヘルン旧居)玄関 wiki c 663highland

八雲は、他人の亭主関白ぶりにも不快感を隠さないほどの愛妻家であり、後に急逝するその時まで、変わらぬ夫婦の絆を保ち続けたという。

二人は結婚後、八雲の転勤に伴い、松江から熊本、熊本から神戸、さらに神戸から東京へと転居を重ねている。

八雲が日本で本格的に小説を執筆し始めたのは、熊本に暮らしていた頃で、この時期には長男も誕生している。
ただし、八雲が正式に帰化し、公私ともに「小泉八雲」と名乗るようになったのは1896年のことであり、当時夫妻は神戸に住んでいた。

「小泉」の姓はセツの実家の姓を名乗ったものだが、「八雲」という名前はセツの養祖父である稲垣万右衛門が、島根の旧国名である出雲にちなみ、『古事記』に伝わる日本最古の和歌からとって付けた名前だ。

『八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を』-スサノオノミコト

この和歌は、スサノオノミコトが自身とクシナダヒメとの結婚を祝して詠んだとされるもので、「幾重にも雲が湧き立つ出雲の国で、妻を守るために何重もの垣根を新居に造ろう」という意味になる。

自分自身が愛妻家で、来日以前に『古事記』に感銘を受けた経験もあったせいか、八雲は日本人としての新しい名前をことさら気に入っていたようだ。

帰化前のファーストネーム「パトリック」は、八雲が嫌いなカトリック由来だったこともあり、ほとんど使うことはなかったという。

しかし「小泉八雲」という名前を得てからは、自宅の表札に堂々とその名を記すようになった。

画像:八雲が熊本在住地に執筆した『知られぬ日本の面影』の表紙 (Glimpses of Unfamiliar Japan) 1894年 wiki c Sarah Wyman Whitman

熊本に移り住んだ当初、八雲は島根県尋常中学校時代の同僚であり、親友として深く敬愛していた教頭・西田千太郎に宛てて、職場での孤独に耐えかねた心情を吐露している。

手紙には、「扶養する家族と幼い子供がいなければ、日本にはもう一日たりともいたくない」と綴られていた。

それでも八雲は、セツに対して不満をぶつけたり、愚痴をこぼすようなことは決してなかった。

生来の旅好きであった八雲は、結婚してからもセツを伴って度々国内旅行をした。
一般的な西洋人が好むような都市化された街は好まず、日本古来の建築物や、人気がなくうら寂しい田舎の雰囲気を特に好んだという。

旅行の際も、自宅に客を迎える際も、さらには家を購入するような重要な場面においても、日本語が不自由で内向的な八雲は、あらゆる対人のやり取りを18歳年下のセツに頼っていた。

八雲のこうした部分や、一度執筆に取りかかると日常生活すらままならなくなる性分に、セツが困惑することもあった。

だがそれでも、自分や子供たちを深く愛し、楽しませてくれる八雲を、夫として変わらず敬い、大切に思っていた。

八雲との突然の別れ

画像:小泉八雲旧居跡(新宿区大久保) wiki c 鋸香具師

セツと八雲の別れは、突然に訪れた。

西大久保の家に転居してからおよそ二年半後の1904年9月、八雲は54歳、セツは36歳になっていた。

9月19日、八雲は胸に痛みがあることをセツに伝えた。
痛みによって弱気になり、自らの死後について語り始めた八雲に、セツは動揺しながらも懸命に声をかけて励ました。

セツは急いで医者を呼んだ。
しかし医者が自宅に来るまでに痛みは治まってしまい、念のため診察を受けたが、その時は異常なしと診断された。

それから数日後、八雲の書斎の庭にある桜の1枝が花を咲かせた。
セツは季節外れの返り咲きに不吉な暗示を感じたが、八雲に開花を伝えると、喜んでその花を眺めていたという。
その桜の花は、その日の夕方には散ってしまった。

9月26日の朝、ふだんは誰よりも早く起きて家族を迎える八雲が、この日に限って、長男からの「おはよう」の挨拶に、寝ぼけている様子もなく、まるで就寝前のように「おやすみ」と返した。

昼前には、八雲は廊下を歩きながら書院の床の間に掛けられた絵に目を留めた。そこには、朝日に照らされた海岸を無数の鳥たちが飛び立つ光景が描かれていた。
八雲はその絵を見つめ、「美しい景色だ。私はこういう場所で生きていたい、好みます」と静かに語った。

その後、いつものように夫婦でさまざまな話を交わし、夕方には家族と一緒に機嫌よく夕食をとった。

だがその夜、八雲は再びセツに胸の痛みを訴えた。
セツは心配して、横になって休むよう促すと、八雲は素直に布団に入り、大人しく目を閉じた。

しかし、それから間もなく、八雲は静かに息を引き取った。

セツは後に著書の中で、八雲の顔には苦しんだ様子はまるでなく、むしろ微笑んでいるようにさえ見えたと語っている。

画像:雑司ヶ谷霊園の墓 wiki c Kakidai

セツは、このあまりにも突然すぎる別れに「少しでも介護や看病をして、覚悟をしておきたかった」と嘆いた。

しかし逆に考えれば、八雲は世話をかけたセツに長い介護の苦労を味わわせることなく、まるで水面から飛び立つ鳥のように、跡を濁さず旅立っていったのだ。

八雲は生前「自分が死んだ時には、田舎の廃寺寸前の小さな寺に葬られたい」と願っていたが、最期の地となった東京にはそのような寺はなかったので、青山よりも静かな雑司ヶ谷の墓地に葬られた。

雑司ヶ谷は八雲が亡くなる2週間ほど前に、セツと最後に散歩をした場所でもあったという。

死後もセツを支えた八雲の愛

画像:コンプレックスだった失明した左目に手を添える八雲(上)。友人のミッチェル・マクドナルド(下)と共に。 public domain

八雲はもともと貯蓄に頓着せず、旅行や買い物、寄付の場面ではむしろ多めに支払うような人物であった。

しかし晩年に入り体調の衰えが見え始めると、自らの死後、家族が困らぬようにと案じることが増えていった。

また、八雲の家にはセツの親類縁者も同居しており、小泉家のほぼすべての生活費は八雲の収入によって賄われていた。

その影響で八雲が亡くなった時には、小泉家には遺産として相続できるような現金や金品はあまり残っていなかった。

しかし八雲は生前に、公的な遺言状を用意し、全財産をセツに譲ることを明記していた。
そのため、終の棲家となった西大久保の家や書斎は、当時のままの姿で残すことができた。

八雲自身、かつて親戚の根回しによって養育してくれた大叔母の遺産を受け取れず、極貧生活を強いられた過去があった。
その経験もあってか、家族の将来を案じた八雲は、生前から公的な遺言状を準備していたのである。

さらに、家族ぐるみで親交のあった八雲の親友ミッチェル・マクドナルドが、八雲の死後、小泉家の資産管理を引き受けてくれた。

海外で高く評価された八雲の著作の版権や印税がセツのもとに入り続けたことにより、以前と変わらぬ安定した暮らしを維持することができたという。

画像:ラフカディオ・ハーン庭園(アイルランド共和国ウォーターフォード県トラモア)八雲とセツの曾孫が提案し、2015年に造成が実現された wiki c さえぼー

八雲の死から10年が経った1914年、セツは夫との結婚生活の記憶をまとめ、『思い出の記』として発表した。
この回想録は、八雲の伝記に収録される形で初めて公にされ、出版された。

その後、子供たちが無事に成長して巣立ったのち、セツは病に伏し、1932年に64歳でその生涯を終えた。

怪奇小説家として、しばしば謎めいた印象で語られる小泉八雲。
その人間らしい素顔を『思い出の記』で鮮やかに、そして愛おしく描き出せたのは、約十三年八ヶ月にわたる結婚生活のなかで、セツが八雲を深く愛し、また深く愛されていたからである。

いまも世界中で読み継がれる八雲の怪奇文学は、彼自身の想像力に加え、セツや、夫妻を取り巻く家族・友人たちの存在があってこそ生まれたものであり、まさに国境を越えて紡がれた愛と絆の結晶といえるだろう。

参考 :
小泉セツ (著), 小泉八雲記念館 (監修)『思ひ出の記
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

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娘に毎日振り回されながら在宅ライターをしている雑学好きのアラフォー主婦です。子育てが落ち着いたら趣味だった御朱印集めを再開したいと目論んでいます。目下の悩みの種はPTA。
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